「卑怯な」という表現は精神的な態度を批判する形容詞です。しかも相当に強度な主観性があります。ですからこの言葉で批判を加えると、相手の人格を
否定することになり、関係性の断絶を覚悟しなくてはならないわけです。そこで意味的には少しずれたところからですが、「姑息な」という表現を引っ張ってく
ると、こちらは相手の人格や精神的態度ではなく、相手の行為を批判するだけですから、その危険はグッと下がります。 しかもマンガなどの豊富な用例により「コ、コソクな・・・」という表現がポピュラーになっています。これは、やや古風な語感の語彙を意図的に使用
している「異化」効果があって、場合によってはユーモアのニュアンスを付加し、自身の相手への批判的な姿勢そのものを相対化・無害化できるから好まれるわ
けです。 単純化して言えば、「それは卑怯ですよ」という「正しい」文よりも「それって姑息じゃね」という若者言葉の方が、より関係性への配慮があり、社会
性があるということができます。そう考えると、「正しい日本語原理主義者」が敵視している「日本語の乱れ」というのも、現代社会において要求されるコミュ
ニケーションの機能を考えると、正当な進化だとも言えるのです。 例えば、「ら抜き言葉」にしても、「受身形(自分のケーキを人に食べられた)」と「可能形(甘くないので私にも食べれる)」が分化してゆくという
のは、文法的にも明晰性の確保になるわけです。そこを未練たらしく「誤った表現が10%も増えた」などとブツブツ言う、そのくせ世論の動向をコッソリ観察
して、ある時点で「お墨付きを出そう」などというのですから、全くもって文化庁という役所は「姑息」と言わざるを得ません。いやこの場合は「卑怯」という
べきでしょう。
— 文化庁の「正しい日本語原理主義」が「姑息」である理由 | プリンストン発 新潮流アメリカ | コラム&ブログ | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト (via kamefull)